その神殿はいつ訪れてもアッシュを迎え入れてくれた。

 アッシュは森の案内人を務めている。だが、そんな肩書きも、彼にとってはこのユティール神殿へ来やすくするためのものに過ぎなかった。実際に森の中を巡回していても道に迷った者を見かけたことはなかったし、村にいても彼に道案内を頼む者は殆どいなかった。こじんまりとした質素な村の住民にとって森は庭のようなものだったのである。まして、小さな名も無き村を訪ねてくるような物好きなどがいる訳もなく、仕事は殆ど有って無いような状態だった。

 ユティール神殿は金色の艶を持つ煉瓦で建てられていた。アッシュは陽に輝くこの神殿が好きだった。中に入ると白い花崗岩で出来た空間が広がり、部屋の中心を通るように入り口から奥の祭壇までえんじ色の絨毯が続いている。祭壇にひざまづき、手を合わせて祈りを捧げる瞬間は何とも言えない安堵感を彼に与えた。神殿の奥には開かずの扉があり、この扉を見るたびに好奇心をそそられた。何度か開けようと挑戦したものの決して開けることはできなかった。
 アッシュはこの奥へ行かなければならないという義務感を感じていた、その理由も知らないで。

 この神殿にアッシュが初めて訪れたのは、今から九年前、彼が十歳の時だった。
 十歳になると、村の子供達は森に入ることを許されるようになる。その誕生日の日、アッシュは朝早く森の中に入った。森の空気は澄み、ひんやりとした感触が頬をなでて行く。あまりの気持ちよさに彼は森の中を走った。どんなに走っても息苦しくはならない。リスや鹿に遭遇し、お互いに驚きあったり逃げる彼らを追って遊んだりもした。

 そして、いつの間にかアッシュは迷子になっていた。

 鬱蒼と茂る木々。村付近はどちらかと言えば森よりも林に近かったのだが、今はどうだ。
木と木が競り合うように伸び、足下に倒れ朽ちる大木は怪しげにこちらを見つめている。遠くからは狼の遠吠えのようなものまで聞こえ始め、アッシュの恐怖心を刺激した。彼は来た道を戻ろうと振り返った。だが、薄暗い森でどう足跡を見分けられようか。陽が陰ったのか、暗さは増してきてさえいる。
 どうしよう……。 
 その時、背後で小枝が折れる音がした。恐る恐る振り返る……。そこにいたのは大きな熊だった。体は真っ黒で大きく、額に月のような模様がある。熊は両腕を上げると、アッシュめがけて降り下ろした。アッシュは必死の思いで熊の攻撃を避けると、勢い良く走り出した。仁王立ちの熊はアッシュのよりも遙かに大きく、追ってくる足の速さも彼の比ではなかった。
 追いつかれる! 
 次の瞬間、逃げるアッシュの視界が開けた。目の前に現れたのは広場と、夕日に光る金色の建物。
 そう、その建物こそがユティール神殿だった。
 熊はアッシュのすぐ後ろまで来ていた。 
 ダメだ、殺される……。 
 アッシュはきつく目を瞑った。しかし、いくら経っても彼が襲われることはなかった。
 ゆっくりと目を開けると、広場の外で両腕を振り回している熊の姿が目に入った。アッシュは不思議に思いながらも、神殿に向かって走り出した。走りながら森の方を見ると、熊はむなしく唸っていた。神殿の中に入り、窓から外を見る。熊はまだ去りそうにない。アッシュは困った。
 今頃、村じゃ大変なことになっているかも……。
 だが、今のアッシュにはどうすることもできなかった。夜の森が危ないのは、森の案内人達から良く聞いている。
 アッシュはこの神殿で夜を明かすことにした。
 陽は沈み、神殿の中もすっかり暗くなった。アッシュは手探りで絨毯を辿り、祭壇の元へ向かった。祭壇は冷たく、思わずくしゃみが出た。床に座り、膝を抱える。
 暗く静かな神殿。
 何かが出てきそうな雰囲気に、不安感が膨らむ。窓の方に目をやると、どうやら月も出ていないようだ。
 寒くもないのに体に震えが走った。
 緊張しているのか、いつもなら寝ている時間なはずなのに目がギンギンに冴えている。
 アッシュは覚えたての歌を口ずさみ始めた。 
“高いお山のその先の…”
 歌を歌えば恐怖感が吹き飛ぶような気がした。
“広いお川と野を越えて…”
 そして、東の空が白み始めると共に、アッシュの瞼は重くなっていった。




 目を覚ますと、アッシュは暖かいベッドの上にいた。不安そうに、案内人の一人であるクリフィクスと村長、近所のおばさんが自分の顔をのぞき込んでいる。
「ああ、気が付いた」
 おばさんが安堵の溜息を吐いた。
「全く、何やってたんだ? 心配したんだぞ」
 クリフィクスが頭をグリグリと撫でてきた。
「しかし、あの森で良く無事だった……」
「本当に。おい、アッシュ。お前は古木の穴ん中で寝てたんだぞ! 確かにあそこは安心だが、一歩間違えばどうなっていたことか」
「古木の穴の中……?」
 アッシュには訳が解らなかった。自分は神殿にいたはずである。なのに、古木の穴の中で寝ていたなんて……。
「違うよ! ボクは金色のたてものの中にいたんだよ」
「金色?」
 三人が顔を合わせた。
「うん。クマに追っかけられて、金色のたてものの中に逃げたんだ。すっごく怖かった……」
「熊に!? 」
 おばさんが心配そうな顔でアッシュを抱きしめる。
「狼ではなくて良かった……。しかし……」
 村長がクリフィクスの方を見た。
「森に、金色の建物は……?」
「ありませんよ。見たこともない。アッシュ、夢でも見たんじゃないか?」
「違うよ!」
 アッシュは強く言った。
「本当にボクはそこに逃げたんだ!」
 ―本当に……― 


 あの時は、誰も信じてくれなかったよな。神殿を前にアッシュは思った。
 あの後、アッシュは半年間森へ行くことを許されなかった。アッシュにとってこの半年間は苦痛で仕方なかった。許可がだされてからというもの、彼はほぼ毎日のように神殿を探した。だが、どんなに頑張ってもあの神殿へ向かうことができなかった。
 やっぱり夢だったのだろうか……。 
 そう思う時もあった。けれども、アッシュが根気よく探したためか、19歳の誕生日、ようやく神殿を見つけることに成功した。もちろん、このことは誰にも話してはいない。
 どうせ、またそんな建物はないとか言われるんだろう。クリフ辺りに。
 アッシュは溜息を吐き村へと向かった。
【続き→】
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